「オレと一緒に来ないか」

そう言って自分に手を差し出した男の表情は、屈託とは程遠い笑顔だった。

















「っ………むーくーろー!!!!」

隣の部屋から青年が思い切り叫ぶ声が聞こえた。
彼が怒りで顔を真っ赤にしているのが安易に想像できる。
自身の口元が吊り上がるのが判った。
再び聞こえた自分の名を呼ぶ青年の声(今度は机を叩く音も聞こえた)にヤレヤレと溜め息を漏らし、今まで作業していた仕事を途中のまま、彼の居る隣の部屋へと向かう。
彼の部屋の扉は開いていて、こちらを見る琥珀色の瞳と目が合った。
沢田綱吉。
この男こそボンゴレファミリーの十代目ボスであり、スラム街で生活していた自分達を拾った物好きだ。
その優しげな物腰とは裏腹に、かなりの切れ者という噂だ。

「何か御用ですか」

そう問えば、彼はきょとんと目を丸くさせた。
しかし、次の瞬間には怒りを思い出したのか、琥珀色の瞳を怒りに染めた。
彼の穏やかな琥珀の瞳が“怒り”という感情で歪められるのは、見ていて酷く楽しい。
それがあまりにも面白くて、自分は彼への嫌がらせを止めることができないでいる。
今回も例に漏れず、彼の表情は怒りで美しく彩られていた。

「“何か御用ですか”じゃない。お前、また任務先で無茶しただろう」
「無茶?なんの事ですか」

肩を竦めてふざけたように言えば、彼は諦めたように溜め息を吐いた。
仕様が無いなと言われているようで、いい気はしない。
しかし、彼の表情が先程とは打って変わって穏やかなものだったので、自分は言い返すこともできず、ただ呆けたように彼を見ていた。

「……ごめんな、骸」

穏やかな微苦笑を湛え、彼は静かに言った。
何故謝るのか。
その理由が、自分には全く解らなかった。
無茶をして彼の仲間に迷惑をかけたのは自分だ。
本来なら、謝らなければならないのは自分の方だろう。
まぁ、謝る気など毛の先ほども無いけれど。
何故なら自分は、彼の困る姿を見るのが何よりも楽しのだから。

「……何ですか、いきなり。気味悪いですよ」

吐き捨てるように言えば、彼は声を出して笑った。
何が面白いのか。
何がそんなに楽しいのか。
目の前の彼は、とても優しい表情で笑っている。
彼の考えている事が、解らない。
でも、もう少しだけこの笑い声を聞いていても良いと思った。
不思議と、彼の笑い声は耳障りだとは感じない。
他の人間が大声で笑っているのは、聞くのも見るのも煩わしいと感じるのに。
そんな事を思っていると、ぴたりと彼の笑い声が止んだ。
どうしたのだろうか。
俯き加減の彼の表情は、前髪に隠れて見えなかった。

「お前、オレのこと恨んでるか……?」
「……そんなこと、最初から判り切っていることでしょう」

自分はマフィア全てが憎いのだから。
全てのマフィアを殲滅してやると、犬と千種と共にファミリーを抜け出したときから決めていた。
勿論、このボンゴレファミリーも例外ではない。
隙を突いて、この目の前の男の身体を乗っ取る。
それからだ、自分の復讐が始まるのは。
そういう意味での肯定だったのだが、どうやら彼は違うように捉えたようだった。

「そうだよな……。まだ年端も行かないお前に、血生臭い仕事を遣らせてるんだもんな」
「……は?」

はぁーと溜息を吐きながら、彼はソファに崩れるように座った。
自分はといえば、よく判らない方向に話が転がっていく事に動揺が隠せなかった。
戸惑う自分を他所に、彼は話を続ける。

「オレとしてはお前を犬や千種、凪のように学校に行かせてやりたかったんだけどな……」
「……それは仕様が無いでしょう。ここで僕ら四人の衣食住を保証する代わり、僕が君たちボンゴレファミリーに力を貸すという取引をアルコバレーノとしたのですから」

不本意ながら、この自分が憎きマフィアに協力すると。
そうしなければ、自分達は明日を迎えられるかさえ難しかったのだから。
あの頃を思い出すだけで、顔が歪むのが判る。

「そうだけど……お前らの衣食費はオレの貯金から出てるんだよ?別にリボーンと取引する意味は無いだろ」
「君は本当に甘い男ですね、ボンゴレ。彼は正しい事をしましたよ。『利用できるものは利用する。』実にマフィアとして正しい判断ではありませんか。この世界の人間にとっては、その考えこそが正しい。だから……君は本当にマフィアらしからぬ男だ、ボンゴレ」

君のようなマフィアは初めて見ますよ、沢田綱吉。
僕を自身の利益として考えず、あまつさえ無償で僕たちを“ここ”に置こうとする。
ただの考え無しの馬鹿なのか、それとも計算高い策略家なのか。
それとも――……。

「でも、やっぱりお前にこんな事をさせるのは忍びない。骸、お前はまだ幼い。オレは……お前たち四人には幸せになって欲しいよ」

――それとも、神なのか。
だって、僕はこんなにも慈悲深く、こんなにも他人のことに一喜一憂する人間を見たことが無い。
人間はいつだって自己中心な生き物なのだ。
だから、人間に対して慈悲深いのは、天の国で退屈している気紛れな神だけだ。
遣ることも無いから、退屈凌ぎに気紛れで人間達に恩恵を施す。
それが神だ。
しかし、そう考えると神も自己中心なものなのだ。
まぁ、信仰心というものが微塵も無い僕にとっては、結局はどうでも良いことなのだが。
神などいない。
そんなもの、人間の創り出した偶像に過ぎないのだから。

「……そんなの、今更ですよ。僕のこの手は、ここに来る以前から既に他人の血で汚れているのですから」

そう、それも血生臭いほどに。
だから、今更辛いとか苦しいとか感じることは無いのだ。
嫌がる僕に、ファミリーは無理矢理ヒトを殺させた。
それも、同年代の子供を。
今でもその時の感覚は覚えている。
触れれば温かく、力を込めれば肉が潰れる感触がした。
嫌だ嫌だと首を振る僕に、ファミリーの大人たちは「殺さなければお前が殺される」と脅した。
だから、僕はその子供を殺したのだ。
自分が生きる為に。
その子供の顔は覚えていない。
男か女かでさえ判らない。
だけど、これだけは覚えている。
その子供は死ぬ直前、確かに笑ったのだ。
そして、声の出ぬ口で言った。
『アリガトウ』と。

――確かにそこは地獄だった。
僕たちをモルモットにして人体実験をし、仲間の命を奪わせる。
奴らは僕らを人間と見なしていなかった。
しかし、だからと言って死を選ぶのは愚かだと思う。
愚かで、それ故羨ましい。
僕は、死を選ぶことは出来なかったから。
“死”が冷たく辛いものだと知っていたから。
だから、僕はこの地獄よりも地獄らしいこの人間界に執着している。
いつか第二の極楽浄土を築く為に。
穢れの無い、純粋で美しい世界にする為に。
その為には、穢れたものを排除する必要がある。
人間という生き物は、この世界の何よりも穢れていて罪深い。
そして、その中で僕は誰よりも穢れている。
だから――……。

「……そんなこと無い」
「え?」

凛と響いた声に、僕は意識を現実に引き戻された。
驚いて、僕は彼を見る。
彼の事だから、どうせ穏やかに笑っているんだろうなと思った。
しかし、沢田綱吉は穏やかな笑顔とは真逆の表情を浮かべていた。
そう。
それは、僕がこの部屋に入って見たものよりも、強い怒りの表情。

――解らない。

何故、沢田綱吉は怒っているのか。
それは何に対しての怒りなのか。

「そんなこと無いよ、骸。汚れてなんかいない。お前の心は、誰よりも綺麗じゃないか!!」

頭が真っ白になった。
ただ、口だけが自分のものじゃないかのように動く。

「き、れい……?なに、言ってるんですか、君。僕の心が、綺麗……?その目はただのお飾りですか?どうしたらそんな、そんな馬鹿なことが言えるんです、か。勘違いも甚だしい……」
「……骸」

びりり、と空気が震えた。
ソファから立ち上がり、沢田綱吉は僕に向かって歩き出す。
僕はと言えば、もう何が何だか解らなくなっていた。
沢田綱吉の言っている事も、自分が言った事も。
気付けば、彼が目の前に立っていた。

「オレは真剣に言ってるんだ。骸、オレはお前たち四人に幸せになってほしい。欲を言えば、オレの手でお前たちを幸せにしたいんだ」

琥珀の瞳が、真摯に訴えてくる。
オレを信じろ、と。
だけど、僕は――……。

「……馬鹿、言わないで下さい。君のそれは、ただの偽善ですよ。僕はマフィアなど信じない。これ以上……これ以上僕の心を乱すなっ……」

本当は関わらないで欲しい。
目の前の男と接すると、何だか調子が狂うのだ。
彼との会話は、僕を掻き乱す。
頼むから、僕を放って置いてくれ。

「無理だよ、もう」

ふわり、と優しい香りが鼻腔を掠めた。
例えるのなら、太陽の匂い。
干されたてのシーツに包まれている時のような、そんな錯覚に陥る。
暖かく、優しく、穏やかで。
彼の腕の中は、意外にも広かった。
そして、心地良かった。

「もう関わってしまったから。お前という存在を知ってしまったから。だから、無理。馬鹿でも偽善でも、オレの中ではこれが真実だから。何度でも言ってやる、何度でも。――幸せになってほしい」

――嗚呼、この男は。
神でもなく計算高い策略家でもない、やはり考え無しの馬鹿なのだ。
でなければ何故、こんな能天気なことが言えるのだろう。
こんな……こんなにも愛しいことが言えるのだろう。
……訂正。
やはり彼は神でもなく考え無しの馬鹿でもない、況してや計算高い策略家でもない。
彼は――……。

「だから、な?そんな辛そうな顔をするなよ」

非凡な平凡を誇る、どこまでも甘く優しい男だ。
暖かく、優しく、穏やかに。
全てを包み込む、懐の大きな男なのだ。
君がただ笑ってくれているだけで、この頑なだった心が解されていく。
沢田綱吉、恐ろしい男だ。
凪や犬や千種が心を開くのも頷ける。

「……わかりました。そこまで言うのなら、僕は君を信じてみましょう。“ボンゴレ”や“マフィア”じゃない、“沢田綱吉”を」

嗚呼、信じてみよう。
頼りなさげで、だけど誰よりも自分たちの事を考えてくれるこの男を。

「だから、精々僕に愛想を尽かされぬよう頑張って下さい。僕、裏切りは許しませんから。もしも裏切ったりなんかしたら……クフフ。生まれてきたことを後悔させてあげます。――これから宜しくお願いしますね、“綱吉”くん」

そう微笑んで言えば、彼は引き攣った笑みを返してきた。
早まったかも、という彼の呟きは聞こえなかった事にしておく。
込み上げてくる笑いを堪えて、僕は窓の外に目を向けた。
そこには、美しい大空が一面に広がっていた――。




















「オレと一緒に来ないか」

そう言って自分に手を差し出した男の表情は、屈託とは程遠い笑顔だった。
だけど、その姿が自分には神々しく見えて。
嗚呼、神が僕らを迎えに来たのかと思ったのだ。
だけど、彼の正体は神ではなくて。
彼は、広い広い大空だったのだ。
僕が焦がれた、あの大空だったのだ。









Un uomo come firmamento



(大空のような男)