何処に行けば良いのか、不思議とわかった。
五感が研ぎ澄まされるような、そんな感覚。
正直、リドルに対する怒りの気持ちは残ったままだ。
しかし、それ以上に、リドルを許したいという気持ちの方が大きかった。
はそんな自分を可笑しく思い、しかし不思議と悪い気はしないなと小さく笑みを作る。
自分はきっと信じたいのだ、あの紅い眼の青年を。

向かうは、禁じられた森。






私達に革命はいらない 08




トム・M・リドルと言う少年は、幼い頃から“愛情”というものが信じられなかった。
物心ついたときには既に両親の姿はなく、代わりに事務的な孤児院の人間達がいるだけだった。
その者たち曰く、自分は“天涯孤独”なのだそうだ。
自分の出生を知った今では、尚更“愛”といものが信じられなくなった。
母は父を愛していた、父は母を愛してはいなかった。
母は父を魔法の力を使って自分のものにした。
母の胎内に自分が宿り、母はそれで安心してしまった。
父はもう、魔女である自分から離れないだろうと。
だけど、父は離れていった。
母は独りになり、そして僕を生んで死んだ。
結局、母が愛したのは父一人だけ。
父が愛したのは母ではない別の女。

――じゃあ、僕は?

僕は誰に愛された?
誰にも愛されてなんかいないじゃないか。
愛し愛されたことのない僕に、“愛情”が何なのか解る訳ない。
そして、それが信じるのに値するのかも甚だ疑問である。

己の中で自問自答を繰り返しながら、リドルは不意に空を仰いだ。
視界に広がる黒い海、その中で静かに瞬く小さな星々。
今にも空が落ちてきて、その闇に自分が飲み込まれてしまいそうな。
こんな空を、かつて見たことがあるような気がした。
そう、そのときも今のように一人だった、独りだった。
当時の事を思い出そうとして、少年は緩やかに瞼を閉ざす。
何も見えなくなったことで、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていくように感じた。
肌を切るような冷たい風や、耳をくすぐる木々の擦れる音、湿ったような独特な土の匂い。
それら全てを、この身で体感できた。
この状況が、彼の身体に色濃く残る記憶を呼び覚ましてくれたようだった。



―静かに闇に横たわる、それの名は死。
自分が生まれて初めて身に感じたのは、暖かい愛情ではなく冷ややかな死だった。
母親の死。
それを経験した赤ん坊の自分に無論“モノゴコロ”というものがついているはずがなく、しかし、身体はそれを記憶していたようだった。
初めて感じた外界の空気、それと共に強く香る死の匂い。
“それ”を見たときの感情、今思うとそれは畏怖だったように感じる。
そして、自分に物心がつき始めた頃、孤児院で一人の人間が死んだ。
名前も思い出せないような薄い存在だったが、自分の部屋を何度か掃除してくれた中年の女性だということは若干覚えている。
彼女は心臓に持病を抱えていたらしい。
運ばれる彼女の死体は蒼白く、酷く醜いものに感じた。
つい昨日まで動いていたのに、と不思議な感情が生まれた。
最初に湧き上がったのは知るはずのない恐怖という感情、そして次に生まれたのが興味だった。
その日から、虫を弄り殺すのが日課になった。
かくれんぼに誘われても断り、縄跳びに誘われても断り、ままごとに誘われても断り。
気が付けば、自分の周りには人がいなくなっていた。
孤児院の人間にも構われなくなり、ある夜、僕は孤児院を出た。
そうすればきっと、誰かが探しに来てくれると信じて。
初めての夜の一人散歩は、この上なく寒かった。

―結局その夜、誰も自分を探しに来てはくれなかった。

その時見た夜空は、そうだ、今にも自分を飲み込んでしまうのではないかと思ったのだ。
そう、今と同じ空だった。
たった一人で、自分はこの闇の海を見上げていた。
結局自分は、繰り返しているだけなのだ、そしてこれからも。
何度も何度も、繰り返すのだ。
そして、裏切られる。
自分の残虐性や傲慢さを否定するわけではない、だけどそれを受け入れてくれる人間などこの世界の何処を探しても、きっと見つからないだろう。
受け入れ、僕を愛してくれる人間など―。

「リドルっ!!」

がさり、という音と同時に、凛とした声と黒い影が飛び出してきた。
少年は我に返り、眼を開きゆっくりと背後を振り返る。
そこには今は会いたくない、しかし会うと酷く安堵してしまう見知った顔があった。

「……

ひどく、情けない声が出たと思う。
リドルはそんな自分に、笑いが込み上げてきた。
こんなの、“らしく”ない。

「あ、その……っすんげー探したんだけどっ!!」
「……そう」

気まずさを吹き飛ばすように、わざと怒った口振りのに、リドルは表面上興味なさげに相槌を打った。
気まずいのはリドルも同じだ。
しかし、それに気付かれないよう、敢えて自身に興味がないような態度を選んだ。
自分のわがままに、彼女を巻き込んでしまうのは嫌だから。
こんな気持ち初めてだった。
他人がどんなに自分のわがままや態度に振り回されても、何も感じなかったのに。
そう、何も、優越感さえも。

「っ、朝から探してたッ!! 授業にも出てねぇし……どうしたんだよ!?」
「どうしたって……君が聞いちゃうんだ?」

何もかもが煩わしくなって、思わず皮肉げな笑みがリドルの口元に浮かんだ。
今は本当に一人になりたかった。
でないと、彼女を傷付ける言葉を言ってしまいそうだ。
ごめん、と呟いて、リドルは森のさらに奥へと足を進めようとした。

「……待てよ」

小さく、しかしリドルには聞こえるくらいの声音だった。
だが、リドルは聞こえない振りをして足を止めなかった。
今この足を止めてしまえば、きっと自分は彼女に酷い仕打ちをしてしまうだろうから。
しかし、はそれを許さなかった。

「ッ、待てって……言っってんだろ!?」

最初は感情を抑えるような声だったが、最後には怒鳴っていた。
肩で息をしながら、は立ち止まったリドルに早足で近寄る。
そして彼の肩を掴み、自分の方へと向かせた。
見えたリドルの瞳は冷ややかだったが、その中に僅かな動揺が見えて、は少し安堵する。
これでもし自分を、それこそ虫を見るような眼でリドルが見てきたら、は自分を押さえられる自信がなかった。
禁じられた呪文の一発や二発、リドルに放っていたかもしれない。
リドルがそれを黙って受けるような男には思えないが。
それに、少なからずショックを受ける自分が想像できて、は溜息が出そうだった。
いつの間にか自分にとって目の前の少年は、拒絶されたらショックを受けるくらいは存在が大きくなっていたらしい。

「なぁ、リドル、オレ考えたんだ。なんでお前が、その……あんなことしたのかって」
「……へぇ」
「……でもさ、やっぱりお前の考えなんて解んなかった。だってお前、ただでさえ複雑なのに」

がそう言うと、リドルの眉がぴくりと反応した。
それを視界に収めつつ、リドルが無言で先を促すので、は再び口を開いた。

「だから、お前の態度は取り敢えず置いといて、お前の言葉の意味を考えてみる事にした。そしたらさ、ちょっとだけ解った、お前の言いたかった事」
「……ふーん。それで? 僕は何を言いたかったのかな?」
「……生意気言うなとか、少しは大人しくしろとか、女としての自覚を持てとか、もう少し考えてから行動しろ、とか?」
……なんで解ったはずなのに語尾に“とか?”って疑問符がついてるんだい」

本人は至って真剣に、真面目に言ったつもりだったのだが、リドルには呆れてしまうような回答だったらしい。
額を押さえるリドルを見上げ、は眉を顰めた。
何か間違っていたか、と。
その様子が何故か面白く思い、リドルはその日初めての、皮肉や嘲笑ではない笑みを浮べた。

「まぁ、そうだね……。点数をつけるなら、五十七点かな」
「あぁ? 何だよその中途半端な数!?」
「だって正解とは少し違うんだもん、の答え」

くすくすと笑うリドルを睨みながらも、は内心ではほっと胸を撫で下ろしていた。
どうやら仲直りは出来そうだ。
しかし、はここで黙って引く人間ではなかった。
まだ自分の言い分は終わっていない。

「ごめん、リドル」
「……何で君が謝るの」

頭を下げるを見下ろしながら、リドルは静かに笑みを消す。
彼女が謝る必要性など、ない。
は姿勢を戻しながら、何か考えているようだった。

「……わからない」
「解らないのに謝ってるの? それって謝る必要あるのかな」
「……必要あるとかないとかじゃない。これは、オレのエゴだよ。ただの自己満」
「ははっ、それ本気?」

赤い宝石が三日月型に歪んだ。
少年の口元を彩るは、嘲るような笑み。
しかしそれを見ても、は怯むどころか、凛然と向き合った。
逃げるのは、もうやめたのだ。

「本気、だ。何に対して反省すればいいかもわからないまま謝るなんて、無意味なことだってわかってる。だけど、お前を追い詰めてしまった、その事に謝りたい」
「……。でも、君は謝らなくてもいい。だって、君は悪くないんだから」
「オレはっ! ……オレは、自分が気付かない内に人を傷付けていると思うと、堪らなく自分が嫌になる」

感情的になりそうになり、慌てては自分を抑えた。
しかし上手くいかず、俯いてぎゅっと眼を瞑り、震え出しそうになる身体を押さえるように自分の両腕で抱きしめた。

「……ありがとう」

ぽつりと、少年が放った言葉。
何気ない、だけどにとっては、身体の震えを止めてくれるような、暖かな言葉だった。

「え……?」
「その気持ちだけで、もう十分だよ。本当、君を見ているとつくづく、意地を張っている自分が馬鹿らしく思えてくる」

困ったように笑うその顔と言葉に、は懐かしい面影を見た。
“あの人”とは全く似ていないのにはずなのに、その表情と言葉は切ない影を彷彿とさせる。
は静かに拳を握った。

「……リドル、一発殴らせろ」
「えっ……ってちょっと……!!」

間一髪の所で、リドルはの拳を受け止めた。
背中にひやりと冷たいものが伝う。
いきなりのの行動に、リドルは引き攣り笑いを禁じえなかった。

「危ないじゃないか……っ!?」

安堵したのもつかの間、気付いたらの頭が接近していて、次の瞬間には鈍痛が彼の額を襲っていた。
予想外の出来事にリドルは言葉も出ず、代わりに痛さのあまりの呻き声しか出ない。
額を押さえてしゃがみ込み、痛みに堪える姿は普段の彼とはかけ離れている。
しかし、その様は年齢相応で、ここでやっとは真に安堵することができた。

「〜〜〜〜っ!! ……頭突きなんて……生まれて初めてだよ」
「そらぁ、ご愁傷様。オレの頭は、残念なことに石頭なんだ」

口の端を吊り上げながら、恨みがましげにを睨み上げるリドル。
その様子を面白げに眺めて、はにっこりと綺麗な微笑を湛えた。
ただし、表情と言葉があまり合ってはいないが。

暫らく睨み合う、基、見つめ合っていた二人だったが、堪えきれずほとんど同時に笑い出した。
静まり返った森の中で、二人の笑い声だけが響きたる。
本来なら、それが原因で森に住む生物たちに襲われないかと心配するところなのだが。
二人には互いしか見えていないようだった。
それとも、単に怖いもの知らずなだけか。

一頻り笑うと、二人は満足したのか徐々に笑いを治めた。

「……そろそろ帰るか」
「そうだね」

頷いたリドルにが手を差し出すと、彼は首を傾げた。
しかし、すぐに合点が行き、その手に己の手を重ねる。

そして二人は、夜が明ける前に、城へと戻っていったのであった。